デジタル化、ネットワーク化の中で伝達様式が大きく変化している状況で、実はもっとも起こってはならないことが「表現者」と「利用者」の互いの排斥なのです。この両者が接近して、互いの権利の調停を行う、すなわち「価値の承認の場」の構築こそが、今求められていることなのではないでしょうか。同意。
みゅーずさんのおっしゃる事も分かります。
元の記事は、いろんな前提条件の下で、ネットワークが発展する以前の環境だと、現在ではある種の囲い込みと思えるような行為も、著作者と享受者の双方の利点の方が大きかったし、だからこそビジネスとして成り立っていたのだと思います。
その観点を保ったままだと利用者の利権のようにも捕らえられるということではないでしょうか?
今は、そういった前提条件がなくなりつつあって、また別の前提条件も増えているわけで、そうすると本来論に立ち返って考えるべきだと私も思います。
by cab on 04/06/18 01:43結論には賛成できますがそこに到るまでの過程には賛成できない。
なぜならこれは「利用者の権利が突出したために従来の権利を利権としてとらえてしまう」のではなく、従来とるにたらないものと位置づけられていたファン活動といったものや、多様な素材をもとにしてあらたなものを生み出すといった創造に、技術進歩により人々が広く参加できるようになるといった現象により、これまで特に問題とされていなかった著作権の規定の不十分さがあらわになったといったほうが正しいからである。
また著作権という権利を検討しても有体財産とは違う各種の性質(自然排他性がないため国による作為的保護を要求しないといけないという特権的性格や文化土壌そのものの公共性など)があるため、他の財産権と同じようにとらえて議論することは無理がありすぎる。
消費者の一連の要求は従来一般の人々が普通の行為としてとらえていたことをある種の囲いこみによってうばっていった法の禁止規定を「本来」的な姿に戻してくれという要求なのである。それは利用者の利権ではない。
(同一性保持権は他者の表現の自由を不当に奪う可能性があり妥当ではないし、権利保護期間を死後50年とすることは著作物の本人帰属性から考えて不当に長い等)